ふと、引っ越してきてから一度も開けていないダンボールを解いたら、高校時代に付けていた日記の束が転がりだした。その他にも、高校時代に書き溜めていた駄文やら駄詩やら駄曲やら、そんな
性春青春時代のメモリーが続々と発掘された。そんなものを暇に飽かせて、布団に転がり読みふけってみると、まるで、過去の自分と話しているようで、少々恥ずかしく思いながらも、ひととき、古い思い出に遊んでみる気になった。
そんな、可愛らしい自分が生きていたときから、もう、かれこれ四年が経ち、今や、大学時代という、自分史における、ひとつの時代が終わろうとしている。まぁ、大学が終わったところで、結局、モラトリアムを継続することには変わりがなくて、きっと、何の変化もない生活が、あと数年は続くのだろうから、来年から社会に出るような同級生と比べたら、僕なんかは、遥かにお気楽なんだろうけれども、どっちにしろ、経つ年月の重さには、あんまり変わりがなくて、ほんのちょっとした区切りに、ふと過去のことを馬鹿笑いしてみるのも、ちょっとした行事みたいで楽しいかもしれない、と、思ったわけだ。よく分からないけれど。
……なぁんて、ね。
なんか、散文みたいな書き出しでブログ記事を書くって言うのも、ときには面白いんじゃないだろうか。そうは言えども、僕みたいな”似非物書き”気取りが”散文調”に文章なんて書いてみても、単に、読み辛くなるだけで、なんのメリットもなく、不評を買う気もするが、まぁ、良しとしよう。そういう、気分なのだ。
誰だったか忘れたが、日記を「更新していくもの」と語った人物がいた。そのひとは過去に書いた日記を読み返しては、書き換え、読み返しては、書き換え、なんてことをずぅっと死ぬまで続けたらしい。だが、僕は、そんな偉大な人物ではないので、過去の日記を発掘したところで、それを書き換えようとは思わない。過去は、過去。それでいい、と、半ば諦めの念を持って、日記を読むという行為も、僕にとっては、何某という偉人の行った日記の書き換えと同じくらい楽しい作業には違いがないのだ。
日記は、読み返すものだ。なんて、既に誰かが言っていそうなセリフを吐いて、ちょっとした過去の記述を読むと、数年という、実感を伴う記憶の保持には長く、その当時の自分を知るには足る、そんな時間を経た今は、もしかしたらいちばん面白いときなのかもしれない。いわば、賞味期限ぎりぎりの発酵食品のようなものだろう。このタイミングを逃すと、あとは不味くなる一方だ。
閑話休題。この辺で御託はやめておこう。あんまり書いてると馬鹿がばれるからね。
ぱらぱらと日記のページをめくる。
やたらと目に付くのが、恋愛に関する記述だ。そして、今も変わらぬ、狂った脳髄の弾き出した、自殺への憧憬。ああ、なんて愚かなんだ、と、今読み返して苦笑するのを止められない。そんな感覚をリアルに追随するのには、少々、僕は、そのときから時を経すぎているのだろう。苦笑しか起こらない。
しかし、あまりに多い、そうした記述を目にすると、当時の自分は、本当に「性欲」と「自殺願望」だけで形作られていたのだなぁ、と、思う。情けないような、思春期なんてそんなものだ、と諦めがつくような複雑な心地だ。
恋愛。
いま、思い出だけを辿ってみても、自分はそれに積極的だった、という記憶はない。むしろ、あまり関心がなかった。確かに、昭和や大正の時代に書かれた古い純文学に描かれるような恋愛には憧れていたのだが、じゃあ、それに日々腐心するほど興味があったか、と言えば、答えはNo だ、と、思っていた。実際、僕は、人を好きになった経験なんて両の手に余るほどしか覚えていない。
しかし、日記を眺めていると、そうでもなかったことが分かる。日々、考えているのは女とSEX のことばかり、という時期さえある。更には、実名で片恋を日記に吐露している女性の数が、面白いくらい多い。既に顔が思い出せないような人から、記載を嘘だと信じたい人、
いまやお天気お姉さんをやっている某有名人(愚かな片思いなわけだが事実。同級生だったのです)まで、ありとあらゆる人に惚れている。燃やしてしまいたい。
付き合っていた人に関する記述が、あまり多くないのは、結構、意外だった。語れない記憶、紙面に表せない記憶が多いせいもあろうが、数々の犯罪行為まで事細かに書いてあるような、日記に対する誠実さを鑑みると、やっぱり意外だ。まぁ、時期的に忙しかったのか、日記を書く気が起こらなかったのか知らないが、誰かと付き合っていた時期は、日記自体の記述が少ないのだが。
こうやって見返してみると、聖人君子ぶっていても、なんだかんだ言って、ごく普通の高校生をやっていたんだな、と思う。人並みに女の子に惚れたり、失恋したり、付き合ったり、別れたり、何だか良くわからないきっかけで、それまで何とも思ってなかった子を無駄に意識してみたり……、そういう普通の高校生みたいなこともやれていたのだ。まぁ、昔も、女扱いがあんまり得意じゃなかっただろうことは、日記からも容易に読み取れるが……。
恥曝しだからもうやめます。
自殺願望。
これはリアルに続くことなので、控えよう。何より、過去の文学的自殺願望を読むのは苦痛だ。
危ない思想。
これって、日記という媒体の骨子だと思う。そして、日記をつけたことのある人間なら思い当たる節も多いでしょう。
大抵、感情が高ぶっているときに書いた文章に出てくる。大きい感情をぶつける場所が他になかったんだなぁ、という必死さが、今となっては懐かしく、可笑しい。後になって、こうやって眺めてみれば、本当に些細で下らないことで、よくもまぁ、こんなに感情を昂ぶらせたものだ、と思う。こんな激情も、最近ではとんと起こらなくなった。そんな二十を折り返したばかりの若造は、でも、若造なりに経年に思いを馳せるのだ。
でも、あんな激情に身を任せて、日記に、それをたたきつけられた頃の、あの感覚は、ちょっと羨ましいものがある。そう言うのが若さの正体なんだろうな。
評論系。
なんかの感想とか。
これは意外と今役に立つ。CD だけでも数百枚(正確な枚数は不明)、映画にいたっては数千本(もちろんビデオ等含め)という膨大な数をどうやって覚えていることが出来るだろうか、いや、出来ない(反語)。(←やたらこう言う書き方が多いのも懐かしい)。こういう情報を、見たとき、買ったときに「感想文」程度でも残してあると重宝する。もう一度見なきゃ、聞かなきゃ、とか分かるので。
そして、大抵の場合、鑑賞する人間が変わってないので、僕が使う分には、的を射たデータベースになっている。まぁ、中には「今の僕に理解が出来ないのか、こいつらがゴミなのか」なんて、皮肉たっぷりに、今では大好きなCD /映画を貶している記述もあるが、それは、若気の至りということで許せてしまう。でも、今の自分が当時の判断の正否を分析できるくらいには的確な批判やらをしている、当時の僕が可愛らしい。それはもう、デジタル化して残しておきたいくらい。
閑話休題。
さて、ここまで日記の中の過去について、長々と書いてきたわけだが、結局、何が言いたいのか、と言うと、なんでもない。単に、病床で、過去に、ふと、思いを馳せたに過ぎない。
心の老い、と、自嘲してみても良いし、おたふくの熱で頭がいかれたんだ、と思い込んでも良いと思う。まぁ、それくらいの些細なこと、ってわけだ。