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ここ最近(半年くらい?),ほとんどの時間を自分の成果のまとめ作業に費やしているのですが,現在,暗礁に乗り上げ中です.自分のデータが不十分であるとか,議論が不十分であるとかではなく,主に作文の問題で…….
昨年度末まで平行してまとめていた日本語の論文を書いているときには,かれこれ20 年以上も使い続けてきた「日本語」を使って書いていたので,そう言う部分では,そこまで苦しむことはなかったのですが(それでも師匠にけちょんけちょんにされたけどw),現在進行中の英語での論文となると,その部分の難度が桁違いです.
僕自身は,そこまで英語が苦手なわけではなく(多分,教科書的な英語なら平均以上にできると思う),文章をひねり出すこと自体にはそこまで不自由はしないのですが,それが十分に論文らしい文章にはなりきっていない,と言うことです.実際,先程言及した邦文の論文を書いているときも,持っていった英語要旨を,師匠に「根本的に論文英語じゃないし,言いたいことが不明瞭」とバッサリやられたわけで…….
この辺について,(表現自体は勉強次第なので,特に言いたいことが言い切れていない点は)自覚がないわけではないので,僕自身,ちゃんと他人の論文を読んで,パクれる表現をパクったり,師匠から勧められたこんな本を買って勉強をしたりしているのですが,どうも上手くいきません.そもそも,往々にして,他人の文章と言うのは,そうそう汎用性が高いものではなく,結局,自分のオリジナルな思想は自分のオリジナルな文章を用いないと表現不能なわけでして…….
そんなこんなで,格闘しながら,なんとか,自分で文章をこさえてみはするものの,これまで散々英語論文を読み続けてきた分,下手に読解力はあるので,自分の書いた文章を寝かせてから読み返しては鬱になっています.
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文章(=アウトプット)というものは「事実の記載」では有り得ません.基本的に人間が外部から得た何かを自分の脳内で解釈した結果の記載です(実際に「書く」「話す」などのアウトプットを伴う,伴わないに関わらず,です).その解釈という作業を「考える」という風に言い換えても良いでしょう.
そして,(これは僕の個人的な考え方ですが)おそらく,論文における文章は,アウトプットする機能を記載することにあるのではないかと思います.要は,「論文における文章」は「文章(=アウトプット)」を生成する過程の記載のアウトプットである,と言えるのではないかと思います(凄くメタな物言いで分かり辛いのは重々承知していますが,自分の実感としては,実際に結果を目にしたらしい「論文考察者」という第三者の脳内の作業を,何も知らない「僕(=執筆者)」が記載する作業なのではないか,と思っている,ということです).
作文が,そういう記載であるのであれば,単純に記載を行えばいいわけですが,ここで問題なのは「考察者」である僕自身が日本語の体系の中で,しかも自分にしか分からない「テクニック(=ブラックボックス)」を使っているということです(考察における論理性の欠如という意味ではなく,主に自分の言語化能力の不足で,言語化できない闇が存在しているという意味です).これが如何ともしがたい…….
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多分,解決方法は,もっと勉強して自分の言語化能力を向上させるか,自分とよく似たブラックボックスを持っている人間の書いた文章をパクるか,の2つしかないです.
そんなわけで,面倒くさがりの僕は,安易に後者の解決方法を選んで他人の論文の文章を「パクリ」目的で漁っているわけですが,どうにもこうにも,なかなか使える「パクリネタ」が出てこないものです.自分の考えていることが,そんなにオリジナリティー溢れるものであるわけがありませんが,そうそう似通った考え方が溢れているほど没個性でもないということなのでしょう…….
ちゃんと英語の勉強しないといけないなぁ…….