まぁ,タイトルで結論は出ているんですが,簡単な話の経緯を書き記します.
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(こんなことを思うに至った背景)
何故かうちの研究室に紛れ込んでいる,当研究室とは全く無関係(とも言い切れないけど,無関係と思いたい)の某大学の外研の学生(僕がこの25 年の生涯で出会った,これを超える人は多分居ないであろうと思う究極のバカの一人.バカのホロタイプ.驚くべきことに年上)に僕と後輩のN くんが忙しい最中と言うのに捕まってしまう.そこで,よせばいいのに何故か話の方向が(宗教的なというか自己開発セミナー的な意味で)キナ臭くなってしまうのであった…….
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細かい話の内容はあまりにも下らなすぎて覚えている価値もなかったので,今となっては(といっても一時間も経ってないけどw)これっぽっちも覚えていないのですが,どう言うわけか,僕と後輩のN くんのいう非常に簡単な話が,その学生さんに全くと言っていいほど通じないのです.まぁ,人によって理解の齟齬や,理解に対する壁,能力不足などと言うことがあることは,以前もこんなことを書いた通り,自分自身,よく認識していたことなんですが,こういう観点とは全然違う意味で話が通用しないんです.
で,何が根本的に違うのかをよく考えてみて,このお馬鹿さんの言うことには「社会」が欠落しているのではないか,と言うことに気付きました.まぁ,「自分だけの自分に都合のいい世界しか見えない」と言い換えてもいいです.自己中ってことね.もう,びっくりするくらい.
この人物の発狂具合を文章で,気持ちよく皆様にお伝えすることが出来ないのが歯がゆくて仕方がないんですが,とにかく,有り得ないくらい何事も自分に都合良く解釈するわけです.それはもう「狂信的な宗教に入信しているのではないか?」というくらい(この例えでもかなりあまく言ってますよ,実際).
そんなわけで,こっちの意味でも話は通用しないし,彼の理屈に副わないことは彼の世界では起こらない,よって理解もされない……の無限ループに陥るわけです.
こういう世界に居る人は,当然,同じ物事(文章,物理現象……etc)を見ても決して,(いわゆる一般的な)僕らとは,感覚を共有することはありません(厳密な意味ではなく大雑把な意味で).よって,(いわゆる一般的な)僕らが,誰にとっても平等に理解されると思い込んでいる「物理現象」ですら同一の理解を得られないし,(より文系的にいうなら)common sense というルール作りすら一緒に行うことが出来ないわけです.
こうなると,いわゆる「理解」の上での障害として設定される「バカの壁(多分,養老氏の著書ではこっちの意味のはず)」以前のレベルで巨大な壁が出来てしまうわけです.だって,理解をしようとすることすら出来ない,または「理解」の意味が(いわゆる一般的な)僕らとは異なるので,根本的に交わることが出来ないのですから.
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多分,養老氏の「バカの壁」という著書は試金石として凄く重要だと思うのです.
(いわゆる一般的な)僕らは,この本を読んでも「そうですね.で?」程度のことを思うだけで,何の感動もないと思います.むしろ,ある程度頭の回る人間であれば「バカじゃね?」くらい思うでしょうし,そもそも読まないでしょう.
養老氏の言う「バカの壁」の向こう側に居る人は,本の真意も理解せずに手放しで喜ぶか,無意味に批判するでしょう.もしかしたら,ある程度頭が回れば,己の過去を振り返ってある程度マトモになることもあるかも知れないです.
それ以前の人(つまり,今回の俎上に登っているお馬鹿さん)は,どうなるのか,僕の想像を遥かに超えているので,正直,分かりません.ただ,一つ言えるのは,その人と話をしても,到底「同じ本」について話し合っているとは思えないような内容になるであろうことです.
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ここでの問題は,「バカの壁」の向こうの人でも「バカの壁」を読む(これは一般的な僕らと同じ意味の「読む」)ことは出来るが,それ以前の人は「読む」こと(視覚的に記号を脳に取り込むこと)は出来ても,本を読むことが出来ない,読めない,と言うことです.そうなると,僕らはその人たちと永久に交われることがない,と言うことになります.で,多分,この垣根を越えることは無理なんだと思います.
そう考えると,「バカの壁」の向こうの人に少し優しくなれるような気がします.おなじ人間なんだ,と…….
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(追記)更に,こういう人たちの凄いところは,自分が何事かを信じれば,それに都合良く世界が変わるって思っている点です.これについては「もう,どーにでもな〜れ♪」というほかないじゃないですか.