2006年03月26日

なんとなく、なんとなく

 こんばんわ。yulico です。新しいカテゴリを作ってみたり、作ったそばから失敗感がぷんぷん漂ってきたりと、忙しい心理変化に右往左往しております。

 「もの書き」

 この職業に憧れ始めたのがいつの頃だったのか、僕は、もう覚えておりません。それはもう、小学校の頃にちょぼちょぼと書き始めた「童話集」だったり、中学校のころに「もの思う葦」(太宰治)に憧れて書き溜めていた「思索集(その名も『20 世紀のパンセ』w)」だったり、高校時代に書き散らしたSF だったり……。もしかしたら、具体的にサイエンティストと言うのがどういうものか、を知ってからそれに憧れたよりも以前の段階から盲目的に「もの書き」というやくざな職業の持つ香りに惹かれていたのではないか、と言う気がします。

 しかし、こんな憧れも、一昔前に青春時代を通り過ぎていたら、大学を卒業するような年齢になってまで心の奥底にくすぶるなんていうことはなかったのでしょう。つまりは、所詮、自己満足で文章を書き上げたとしても、インターネットという虚構空間が存在していなかったとしたら、そんなところに恥を晒そうなんていう考えも浮かんでこなかったのではないだろうか、と思うわけです。

 しかし、現実には「インターネット」の存在する時代、それを扱うのに特殊な技術のいらなくなる時代に、青春をささげてしまった僕は、その虚構に身を沈めなければならない義務を自らに負ってしまったわけです。簡単なる発表の場と、簡易なるコミュニケーションツールの前に、己の恥を省みる余裕はいかほどもなかったこと、それはきっと、多くの「もの書き」志望の若者に理解していただけることでしょう。

 そんなわけで、僕は、やってしまったわけです。初めて持ったウェブサイトに、稚拙な小説をアップロードしたり、詩を書いてみたり、しまいには、自分で勝手にエッセイを書いてみたり……。

 やってみると、意外にも面白いものでした。
 自分の隠し持っていた究極に自己の快楽に忠実な感覚が、人目に触れ、簡単にアクセスされうるという、被虐的快感。こう書くと卑猥だけど、「もの書き」という職業そのものが内包する「他人に見られる」という快感が、いとも簡単に手に入ってしまうという気楽さは、仮に、その相手が仮想的な「読者」に対してであっても、少なくとも僕にとっては気持ちのいいことでした。

 なーんて、書いていると「ただの自己満足」と捉えられるわけだけれど、それは、そのとおりなので、僕は何もいえない。アダルトビデオという仮想の対象の前で、僕は、公然とオナニーをして気持ちがいいと言っている……、例えるならそういうことです。しかし、そうであることを自覚していてもオナニーが気持ちいい限り、そんな皮肉を気にしないくらい、僕はタフになってしまっているのです。その辺も、アダルトビデオ&オナニーに似ているな……。

 閑話休題。

 そんなわけで、僕は、また、このblog という文明の利器を用いて、恥ずかしい「公開オナニーショウ」を始めようと思い立ったわけです。

 「いんまいふぃろそふぃい」

 「僕の哲学では……」

 実を言うと、Ben Folds Five の曲名からのパクりで付けたカテゴリーのタイトルなのですが、あの曲で言うような、いわゆる「僕の哲学」ではなく、個人的な近代〜現代哲学雑感、というか、批評文学的なアプローチというか、そういうものです。まぁ、そこまでかっちりした批評なんて書けないので、一学生の哲学妄言集みたいな色合いになるかなぁ、と思っています。まぁ、少なくとも某友人のいう「哲学」のようなものを書くつもりではない、と言うことだけは、はっきりさせて頂きたい。けど、文系人間じゃないのでタームの誤用とか、知識不足&突っ込み不足は笑って許してくださいな、という感じで……。哲学風エッセイってところかな……。


 哲学しますか、そうですか。というわけで、yulico です。改めまして、こんばんは。以下、ふざけた「です・ます」調はやめさせて頂きます。



「ソシュールと文学批評」

 今後、私が「文学」について語ることがあると思うので、まず、このカテゴリーを書き始めるにあたり、私の「文学」に対する立脚点だけは、はっきりさせておきたいと思い、まずは、このことから書き始める。

 現代批評の前提条件として、「文学」に限らず「書かれたもの」を語る際、どうしてもソシュールの議論抜きで批評を行うことは出来ない。今更、ソシュールなのか、という反論はもちろんあるだろうが、その反論を寄せる側の人間にとってもソシュールの議論そのものの存在抜きに「文学批評」は存在し得ないことくらい理解を示していただけることと思う。

 と、大層な前書きをしておきながら、私は、ソシュール体系に基づく議論に違和感を抱く人間であることを告白せねばならない。

 具体的な例をあげるまでもなく、ソシュール以降の「文学批評」は、永遠に知りえることのない、「文字」という存在を追い求める努力を放棄した。それとともに、文脈という概念を持ってして、現実には「存在」したはずの、書く人間のもつ意志の存在を否定した。語弊を恐れず、極論すれば、その結果、「文学」は「テクスト」になり、「作家」はその人格を否定されることとなった。つまり、作家とテクストの間に、読者が身勝手な関係の断絶を迫ったわけである。

 私は、この年齢になってなお、この事実に違和感を覚える。

 その違和感とは、第一に、ソシュールの体系は、「日本語」という体系の中で、果たして西欧諸国と同様に振舞いうるのか、と言う点がある。

 第二には、先に述べたような「存在」するはずの、単語に表れる作者の意思を追求しない、ということが、文学からの逃避に感じられる、と言う、私個人が「逃避」に対して生理的嫌悪を感じてしまう、と言う点である。


 この二つを端的に感じさせ、かつ、私が、初めてソシュール的なものに違和感を覚えた例をここにあげたい。それは、宮沢賢治の童話「やまなし」における「クラムボン」に対する解釈だ。

 ソシュール体系に則れば、「クラムボン」は「クラムボン」であり、何者でもない「クラムボン」というもの、言い換えれば「記号の集合体」なのだ、という解釈がそれである。

 もう少し、噛み砕くならば、ソシュールの言うように、文字は文脈の中でのみその意味が生じる以上、文脈において「クラムボン」という記号の羅列である「クラムボン」は、「クラムボン」としてしか存在し得ない、という解釈である。ようは、「クラムボンは光だ」とか「クラムボンはアワだ」とか「クラムボンは仲間の蟹だ」とか、そういった解釈をすること自体を否定する、と言うことだ(因みに私個人は上に挙げた代表的な解釈とは違った解釈を持っていますが、今回は本題から外れるので割愛させていただきます。いずれ書くこともあるかもしれないし、ないかもしれません)。

 もちろん、ソシュール体系に基づく解釈によって多くのテクストが新たな脚光を浴びたことや、ソシュール体系そのものを否定しようとは思わない。というよりは、出来ない。テクストは記号の集合体である、と言う解釈は、テクストを読み解く上で、絶対に欠かしてはいけない概念であることは、私にとっても重要な意味を持っている。だからこそ、私は、先程から「違和感」としてしか、批判を表明できないのだ。

 しかし、先に述べた例に関して、私の感じる違和感を幾分か、共有してくれる方がいることと思う。それはきっと、私と「日本語」という共通の基盤を持っているからに違いない。

 つまり、「クラムボン」は「くらむぼん」でも、「蔵無盆」でもなく、明確な意志をもって「クラムボン」と表記されているからである。

 日本語には「表意文字」が存在する。つまり、文字が単独で意味を生じうる、と言う状況がありうるのである。日本語において「木」が単独で存在したとしても、間違いなく、日本語においては、木なのだ。つまり、文字そのものが文脈足りうる場合、というアルファベット圏において起こりえない事態が生じうる。このことは、「表意文字」を持つ社会においてソシュール体系をそのまま「文学批評」に持ち込むことが出来ないことを意味するのではないだろうか。

 このような、恐らく、既に他人によって表明されているだろう「違和感」とともに、私が持つ、もうひとつの違和感は、私自身が「小説」の作者にもなりうる、という個人的な動機によるものであるので、以下、妄言と思われても構わないが、議論を進める。

 宮沢賢治が「クラムボン」と記したとき、そこに、作者の思い描く「クラムボンの正体」が、間違いなく存在したはずなのである。それに思いを馳せることを否定するソシュール体系の言説は、作者の意図するところであるのか、と言うことである。

 つまり、現実に存在し得た「解答」を探求することを止めてしまうのは、もったいない、と言い換えることも出来よう。例え、誰もその「答え合わせ」をしてくれないとしても……。

 私は、作者の生み出した謎から、逃避することよりも、積極的に立ち向かうことを望む。それは、決して日教組的な「国語の正解」を求めるということではなく、正解の存在しない完全なる自由な空間に、例え自己欺瞞であっても「回答」することが、単に、「テクスト」としてテクストに立ち向かうよりも、有機的な魅力を感じるからに過ぎない。テクストの向こう岸に無限に広がる自由な空間に、自ら背を向ける読者の存在は、意思をもって文字を羅列する作者にとってあまりに悲しいことではないだろうか。

 ソシュールの文芸に対して放った業績は、数え切れない。この文章は、ソシュールがその体系を樹立しなければ、存在し得なかった多くの仕事の偉大さを否定するものでは、決してない。しかし、ソシュールの持つ冷徹なまでの視線は、「薄暗い悲しさ」を常に内包していると、私には感じる。それは、私が、日本人であり、テクストを書く側の存在たりうる、と言うアイデンティティーに大きく関わる事態でもある。その結果、私は、私の文学批評において、ソシュールの体系から逸脱してしまう未熟さを、永遠に捨てきることが出来ないのだ。


 そして私は、このような立場を持って、文学を読んでいたいと欲する。
posted by yulico at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック