2006年05月05日

誰にも見えない美しき世界

 こんにちわ。むかわ町穂別富内が雨のため、本日は自宅待機のyulico です。同じ学科のお姉さんはGW 前に「GW 中に日高(フィールド)に行く♪」とか行っておりましたが、ばk……大変そうだなぁ、とか思ったり思わなかったり……。

 しかし、天気さえ良ければフィールドには出たいのが本音。たとえ熊がいてもフィールドワークは楽しいものです……仕事じゃなければね。実際にフィールドに出ると、あれもしなきゃこれもしなきゃ、と義務感に追われて結構大変。

 閑話休題。

 というわけで、今回は、似非哲学者兼似非サイエンティストyulico の「哲学万歳」のコーナーです。といっても、今回扱おうと思っているネタは、どっちかって言うと哲学というよりは「美学」。それも、サブカルの要素が強く出てくるようなものですが……。その辺は、日本の哲学者で一番好きなのは東浩紀とか言っている人間ですのでご勘弁を(といっても、当代一流のデリダ研究者として尊敬しているのであって「萌え」を哲学してる東はあまり好きじゃないんですが。なお、蛇足ですが、デリダは難しい、とか、意味分からない、とか、敬遠している方がいらしたら東の著作は絶対お勧めです。彼の解釈がいかにしろ、少なくともデリダの原典よりは遥かに頭に馴染みます。……って、それじゃ本末転倒ですが)。





 哲学しますか。そうですか。
 というわけで、以下、ふざけたですます調は控えさせていただきます。


「誰にも見えない美しき世界1」

 世界は、知覚する人間のみの知覚し得る世界だ。とはじめに言ったのが、誰だったかは記憶していないが、誰もが共有しうる妄想であることに相違ない。言い換えてしまえば、この世界は、自分の作り出した妄想に過ぎない、という流派だ。こういう考えは、確かに、哲学という形で明確に表現されたのは、近代以降であろうが、歴史を辿れば、かなり古くから似たような説話が残っていて、「邯鄲の夢」や「胡蝶の夢」なども同様の視点でものを見ていると言えなくもなかろう。
 前回扱ったソシュールにも少し関係してくる話なのだが、人間の感情は「言葉」による定義を持って始めて生じた、というのは定説である。感情は、所詮、文字による情報の集積である。誰かが「悲しい」という言葉を作らなければ、人間は悲しくならないし、誰かが「うれしい」という言葉を作らなければ、人間はうれしくならなかった。もっと、近代的な例を出すなら、フロイトやその周辺の精神医学者が「無意識」などを唱えなければ、人間には無意識は存在しなかったのだ、といっても良い。こと、日本においては(世界的な事情には疎いが、おそらく世界的現象であったろうと思う)フロイトの説に基づいて、一時期、馬鹿みたいに「人間の内面」をあつかった小説群が登場した結果、誰もが、まるで小説の主人公であるかのように「己の内面」と称する「ナニモノカ」を口にする、という、何とも気持ちの悪い現象が生じている。しかし、現実には、そんなものは存在しないのだ。
 よく、人は「科学は人の心のありかすら見つけていない」などという言葉を口にするが(特に文系の人間に多い気がするのだが、偏見だろうか?)、心というものは人間が「心」という言葉を作って、それを意味付けるようなテクストが積み重ねられて、始めて存在し得たもの、空想の産物に過ぎないのだから、そんなものは、生物としての人間に存在しないことは自明である(哲学の素養のない理系の人間がこれに納得できないのは当たり前だが、文系の人間が納得できないのは意味不明だ)。同様に「生命のありか」やら「死の証明の科学的是非」やらという言葉にも同じことがいえる。言葉にされたものは、言葉によってしか定義され得ない。哲学的な問題でありながら、これは、サイエンスにとっても、最大の呪縛かもしれない。

 閑話休題。

 話が随分と脱線してきたので、本題に入ろうと思う。

 感情、それに限らず、言葉を用いるものは、すべて、その言葉の定義に規定されてしまうという現実。これを認める以上、避けて通ることが出来ないのは、言語間の誤謬という問題である、といわれる。よく、学校の英語の授業で「look とwatch とのニュアンスの違いは〜」などという話がなされる。もしかしたら海外の日本語学校では「聞くと聴くのニュアンスの違いは〜」なんて言われているのかもしれない。これらは、その最たるもので、異なる言葉を持つ人間には、自分の言葉が正確に伝わり得ない、ということを示した好例だろう。しかし、これは、果たして「異文化コミュニケーション」という大きすぎる括りでだけ、扱われて良いものなのだろうか?

 雑感として、同じ日本語を喋る人間同士であっても、言葉は同定義で伝わるとは限らない、と言える。個人的な経験でも、最近、友人との間で、ちょっとした行き違いがあった。あまりに下らない話なので詳細は避けるが、同じ言葉で、こうも違う意味でとらえられるのか、と正直感心してしまった(まぁ、そのときは一方的に自分に認識不足があったのだが)。つまり、言葉に対して蓄積した情報の数や種類が異なれば、当然、同じ言葉でも全く異なった性質を持ちうる、ということだ。極論すれば、「セカチュー」しか読んだことのない人間と、「風立ちぬ」しか読んだことのない人間が、「愛と死」に関して話をしても、永遠に同じ認識は得られない、ということだ(どっちも簡略な粗筋(愛する女が不治の病にかかり、女は死んでしまう。その間の愛の軌跡、とかなんとか。帯に書かれていそうなやつね)にしてしまうと全くかわらない話であるにも関わらず)。

 閑話休題。

 と、ここまで書いて、話が半分も来ていないので、次回に続きます。
posted by yulico at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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