さて,最近,携帯小説なるものに対する賛否両論がネット上や何やら至る所で聞かれていて凄く香ばしいのですが,それらを傍観していて思うことを…….ただし,「コンテンツがうんこ」なんていう元も子もないこと(でありつつ,完全な事実)を言うつもりはありません.
まず,僕個人の見解として.携帯小説(多分,メール等で配信可能な形態で,携帯電話の画面を通してストレスなく読むことの出来る小説,という定義なんだろうね)はどうなのか,というと,「無理」の一言です.ただし,大方の携帯小説を擁護したい人のいわんとする,文学の一配信形態としての携帯小説の可能性を批判する気はないです.なぜなら,(まあ,その辺はマトモな始点からの携帯小説擁護派の方々の言説そのままなのですが)小説というものが配信されるやり方として”ライト”で”ポップ”なメール配信の可能性を否定するのは「小説」様を高く見過ぎなんじゃねーの?と思うからです.だって,仮に同一コンテンツであったら低俗な雑誌に載っている方がメール配信されるよりも偉い,なんていうことはないでしょう…….
しかし,個人的に僕は,携帯小説の未来はないと思うし,この分野が発展して行くことには危惧しかないと考えています.それは,やっぱりマトモな携帯小説否定派の言説にかぶる部分があるんですが,構造的に情報伝達に齟齬を来している点です.
携帯小説は,その性質上,様々な制約が「なければならない」とされています.第一に,改行が多くなければならないこと,第二に「現代風な」言葉遣いをしなければならないこと,なんて言うあたりがよく話題にあがります.んで,結構,このあたりが多くの否定派の癇に触っているんだと思います.しかし,僕は,(もちろん,ある程度問題の根っこの部分はあるにしろ)そこにあまりまずさを感じません(散文詩なんて,みんなそんな形態だもんね).それよりも,僕が問題視したいのは,実は携帯小説だけではなく,いわゆるところのライトノベル,エンターテインメント小説に通ずるものではあるのですが「言葉を使わないで伝えようとする姿勢」です.
本来,小説(に限らず言葉全般)は,相手に無条件で「情報」を伝達する手段であり,そうでなければならないものであるはずです.言葉は原則として,過不足があってはいけない上に,相手に伝えるという制約上,美しくなければならないもののはずです(あえて美しくない語法を用いるとか言う話は小説の技術的な話だから原則は原則).しかし,ここ最近,特に携帯小説という形で顕著なのですが,この原則がなくなりつつあると感じます(具体的に例を挙げるには僕の携帯小説体験が少なすぎるんですが……).
つまり,何が言いたいかというと,言葉以外に読者に求められる前提条件が増えて行く一方で,言葉を用いて「物語」を表現する,という作業が作者の側に完全に欠落しているのではないか,ということです.
動詞を重ね続けたり,「〜〜と思った」を重ね続ければ話の流れは確かに作ることが出来ます.登場人物をキャラクタライズして,読者のもつ固定概念や抽象概念を利用すれば,何となく人物像を描いてやることも出来ます.しかし,それでは読み手には,実際のところ何も伝わらないはずです(こんな話,こんなキャラという最低限の情報くらいはわかるけど).仮に,携帯小説というものが目指している世界がそういう世界であるのであれば,僕は沈黙せざるを得ませんが……,それってすっごく下らないギャグ漫画よりも文化的な意味でレベルが低いと思いますよ……(漫画は「絵」で書いてしまえばかなり多量の情報を読者に伝えられるから言葉のみのメディアよりはそういう点で有利なんだけど).
一般的に,評価の高い小説(純文学だろうがエンターテインメントだろうが)を読むと,なによりも言葉の取捨の巧みさ,表現の美しさに感心するはずです.本来,小説というのはそういうものであるべきです.
「物語」を伝えるために,言葉を,表現を限界まで選び続ける,という作業を捨て去った携帯小説という世界(伝えるのに最低限必要な言葉すら使わず,美しさを求めない世界)の中では,仮にこの先携帯小説家の誰かが,奇跡的に誰もが納得せざるを得ない完璧な構成のコンテンツにたどり着いたとしても(あり得ないけど),いまある制約の中では,決して評価を受ける事は出来ないという構造的欠陥を抱えていることに気付くべきではないか,と.
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