2008年05月15日

自省録

こんばんわ.yulico です.

最近,ぐだぐだになりがちな日々の生活態度を改善すると言う意味で自省的な文章でも書き記しておこうと思う.まぁ,出来る限り一般論に落とせるように努力はするつもりですが,そこは特殊な業界に身を置いているので,それなりに特殊な内容になるかも知れませんので,話半分に読み飛ばして頂ければ幸いかと…….

閑話休題.

かれこれ三年以上も同じ研究室に住んでいると,後輩にあたる人間も増えてきて,自分も指導者的な立ち位置にいなければならないような機会が訪れることがある.そのこと自体はおそらく,どんな立場にいても時間が経てば多かれ少なかれ出てくることではあると思うが,殊,学校と言う教育機関に所属している自分にとっては,そのことがすなわち後輩に対して教育的配慮ある行動を取らねばならないことと同等であることが多い.具体的に言うと,後輩が間違った議論を行っているときに,ただ,そのことを否定し,正しい認識を教えるのではなく,ディスカッションの範囲で上手く校正してやる必要がある,と言うことだ.それには,件の問題に関して,後輩よりも十分に優位な知識を維持し,かつ,自分(yulico)のもつ思考の段階に,後輩が自分(後輩)の力で辿り着くように誘導できるような能力が必要になる.

また,そこまで大仰な立場を避けるにしても,少なくとも私には,「見習うべき人物(もちろん,これに私自身を示せるのであればなんの問題もないのだが,現実にはそう簡単なことではないので,より手本になる人物)」と「見習うべきではない人物(同時に自分がそういう人物にならないことを目指すと言う意味でも)」を示す義務がある.つまり,あるディスカッションを行う上で,その価値がその人物にあるのか,ないのかを示してやらねばならないということだ(もちろん,その相手が自分であることが一番よいのは言うまでもないのだが).

このような状況を想定した場合,私は,少なくとも,自分を含む他者に対する批評を行うのには十分な客観的な視点を持つ必要があり,そのようなことが出来ていることを後輩に示している必要がある.その上で,後輩に「yulico 先輩は見習うべき人物であり,少なくともyulico 先輩の人物評は妥当である」と思ってもらう必要がある.つまり,単刀直入にいえば,自分で自分を「馬鹿」と断ずることは出来ないし,後輩に「馬鹿な先輩」だと思われないために十分な努力を払わねばならない,と言うことだ(もっと不遜な言い方をすれば「自分は優秀である」と自分で信じる必要がある,と言うこと).

これらの前提の上で,私自身が一番問題とすべきことは,「説得力のある批判を述べられるだけ十分に私は自己批判を行えているのか」ということだ.また,その自己批判は,学問的な問題意識から,普段の行動,生活態度にまで至るべきであり,他者に対する批判よりも厳しくしなければならないことだ.

当然のことながら,指導する立場の人間として未熟な私には,前記のすべてを完璧に満たすことはできない.時により,他者に対する「批判」はただの悪口になり得るし,やっかみにもなり得る.しかし,反省点はあれど,後輩がある程度自分の批判に対する「信頼」またはそれに近い態度を示してくれる以上,自分の先輩であろうとしている「意識」は後輩に伝えられているのだろう,と思っている.

とはいえ,慢心に至るほど,自分の中で他者を批判する能力が身に付いているとは,自分自身思わない故,この一文をしたためたわけでもあるし,幾分,潔癖とはいえこのような目標を,こういう公開の場に残しておくことには意義があると思っている.
posted by yulico at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | おべんきょう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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