2008年05月20日

自省録2

こんにちわ.日々,人間関係の問題に頭を悩ませているyulico です.

前回は「後輩」に対する自分の立ち位置と言う意味で,自分の存在価値に関して色々と考え込んでいましたが,あくまでそこでいう「後輩」という存在にはある程度理想的な枠の中にいる後輩を考えていました.しかし,仮に自分の想定し得ない,「壁」の向こう側にいるような後輩に対して,自分は如何に接すべきか,という問題に直面したわけです.そういうことも,今後,自分が学校と言う場にいる限り,考え続けなければならないと思うわけです.

閑話休題.

常識,という言葉を使うのは,個人的に好きではないのだが,敢えて使う.仮に,自分の後輩が自分(yulico)の常識を大きく逸脱していた場合,自分はその後輩に何を伝え得て,また,どこまでを伝えるべきか,と言う問題.

言うまでもなく,大学の研究室というのは,教育機関という側面よりも研究機関という側面のほうにウェイトを置いている場である.また,たとえ教育機関であるとはいえ,少なくとも初等教育をする場ではないことは言うまでもない.しかし,そういう場に,本来,初等教育やそれ以前の家庭教育のレベルでの問題を持っている学生が紛れ込んで来てしまうことがままある.そういう学生は,家庭に問題があったのかも知れないし,周囲の環境に(僕の視点からすると)恵まれなかったのかも知れない.

僕らの常識からすれば,通常の人間関係を築いて来さえすれば,どこかのタイミングで身につけられるような社会生活を送る上での常識が欠落してしまっているという人物に直面した場合,無視して空気のように扱う,というのも一つの手段ではある.また,本格的にそれを矯正してやろうと考えることもありだろう.ただし,どちらも極論であり,そういう方向性に進むためにはそれ相応の覚悟がいるものである.

大学の研究室が高等教育の場である,という前提に立ち戻った場合,本来,常識の欠落した人間に対してなすべきことはない.そのような学生であっても,与えられた仕事を許された期間内に正確に行うことが出来る能力さえ持っているのであれば,さしたる問題は生じ得ないし,それ以上の部分に干渉するのはナンセンスである.しかし,大学の研究室とはいえ,そこには人間関係があるわけで,あまりにも常識の欠落した人間(大学の研究室の人間なんて全員社会不適合者なことは間違いないのだけど,そういう高次元の問題ではなく,もっと低いレベルでの社会的な常識の欠落した人間)と付き合うときには,やはり蟠りが生じてしまうのは避けられないと思う(また,そういう最低限の社会的な常識が欠落している人間に「与えられた仕事を許された期間内に正確に行うことが出来る能力」があるとは考え難い,という大きな問題も孕んでいる).

この場合,その学生に対して「常識」を指導する義務が自分にあるのか,というと,多分,そんな義務はないはずだ.しかし,正常な人間関係を築きたい(または,ちゃんとした研究をさせたい),という観点に立った場合,ある程度,「常識」の指導をせざるを得ない,とも言える.

だが,現実的な方法を考えた場合,僕に出来ることは,所詮,「ちょっとしたアドバイス」にすぎず,相手が「こんなクソ野郎にいわれたくねーよ」といって聞き入れもしないような状況になったとすると,結局,自分がただの先輩(=他人)である以上,後輩の人生をどうこうしようなんて言うのは,ただの傲慢でしかないし,すべきことではない……気が……する.

結局は,ある程度,(分を弁えて)忠告してもどうにもならないときには見捨てざるをえない,という風に割り切れない,というのは優し過ぎなのかな?
posted by yulico at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | おべんきょう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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