前回の記事では「なんでweb 上のコンテンツが引用文献に値しないのか」については,さんざんニュースやら何やらでも言及されている通り,すでにかなり自明なことなので触れませんでしたが,同僚がその辺のことをメインに言及してくれているので参照願います.
蛇足ながら少し補足すると,論文は必ずしも等価でないと言うことが結構重要.
具体的な名前を出すのは差し控えますが,A というジャーナルに掲載されている論文とB というジャーナルに掲載されている論文との間にはたとえ同一の内容を扱っていても本質的な評価が異なることがあり得ます(A 誌とB 誌の間には,扱う分野や考察に要求されるレベルなど,様々な差があるのが通常です.そして,論文を提出する学者側も,それら雑誌のもつ前提条件を基準にして,自分の論文を投稿するジャーナルを「選ぶ」ことになります).一方,ウェブサイト(ここでは学会が運営する電子ジャーナルというジャーナルに次ぐ媒体として認知されているようなサイトではなく,個人が公開している情報を指すことにします.ただし,掲載される情報の確度は問いません)は,それがたとえ十分に検証可能な引用に基づいたコンテンツであり,論文様の体裁が整えてある最終版であったとしても,他のすごく確度の低いウェブサイトと等価でしかなく,その判断基準は読者に依らざるを得ません.それは,永久に評価が個人の主観から脱しないことを意味しています(作者A が「十分」と思ってウェブ上に公表した段階ではA の主観.それをB が読んで評価した段階でもB の主観.以下無限ループ).
ジャーナルにはレッテルという側面があります.あるジャーナルに掲載されるということは自動的に,どういう分野にとって重要な論文で,考察にどのくらいの確度があるのか,を示していることになります.このようなシステムは,必ずしも良いシステムとは言い切れませんが,少なくとも人間が無数の情報を利用時の用途に応じて分類するシステムとしては,(いまのところ)十分に効力を発揮しているといえます(ゴミ論文ばかり載っけているジャーナルは誰にも相手にされず,駆逐されていくので).ダーウィンの進化論と一緒ですな.親(学会)から子供(ジャーナル)は生まれる.子供(ジャーナル)たちは親(学会)と似ているけれど(評価はされているけれど),少し違う(その評価は絶対的なものではない).環境(学者の批判)に適応できない(耐えられない)子供(ジャーナル)は死んでしまう(廃刊になる).
結論:ダーウィニズムを信じるなら引用はジャーナルからしましょう.イマニシズムやら創造論やらを信じるなら……どーでも良いんじゃないですか?
# トラバくらいできるようにしとくか.
まぁ,最終版云々てのは「引用文献」がみたす最低限の要件であって,証拠としての確度は投稿者と査読者のコミュニティの質に依存するってことにも全く異論無し.するってーと,ある程度のバージョン管理能力をもつ wikipedia ってのは,適切に引用しさえすれば,具体的な筆者が特定できない新聞記事程度には証拠能力があるじゃねーの?とか思ったりする.それってつまり使えないってことなんだけど.
もちろん.その前提に蛇足で.
> するってーと,ある程度のバージョン管理能力をもつ wikipedia ってのは,適切に引用しさえすれば,具体的な筆者が特定できない新聞記事程度には証拠能力があるじゃねーの?とか思ったりする.それってつまり使えないってことなんだけど.
これは書いてて思ったんだけど,「wikipedia = (ある程度)引用可能」とか思われたら死ねるので敢えてヌルーした.