2008年11月02日

全智全能の神は白痴でも,白痴は神か?

前記事の続きのようなもの.

以前も引用したことがあったかも知れないが,個人的に感銘を受けたエピソードの紹介なので改めて引用しておく.「倉田わたるのミクロコスモス」中の廃墟通信より2008 年4 月15 日「知恵と力について(http://www.kurata-wataru.com/ruin/ruina84b.html#080415)」を引用します.


天井からバナナをぶら下げた部屋の中に、棒と、台と、チンパンジーを入れ、チンパンジーが「道具」を使ってバナナを取ることができるかどうか、という例の実験を行っている様子を窓越しに見ながら、「超能力者の知能」に関するディスカッションが行われている。窓の向こうでは、チンパンジーは道具を使うことに(まだ)思い至らず、空しくジャンプを繰り返しているのであるが..対話をしているひとりが、「ですから、超能力者は、多くの場合、白痴であると考えられるのです」。もうひとりが(不吉な予感に身を震わせながら)「それは何故ですか?」。「なぜなら、知能を持つ必要がないからです。生まれ付き持っている力だけで、なんでも見ることができ、なんでも得ることができるのなら、なぜ、考える必要があるのでしょう?」..そのとき、実験室の中のチンパンジーは、苛立って、思いきりハイジャンプをしてバナナを叩き落としてしまった。道具を使うことなしに..


これは,元記事の紹介によると某SF 短編のワンシーンらしいのだが,要約すれば「圧倒的な力さえあれば知恵などいらない」ということ.

閑話休題.

この理屈に従えば,間違いなく,全知全能の神がいたら白痴なのだろうと思う.それは,多分,世の多くの創作に描かれる神が白痴に近いものとして描かれるのと同じだろう.

じゃあ,白痴の人間は,神になり得るのか?

この答えは,多分,YES.

神の前に人は,ひれ伏し,せいぜい慈悲でも請うしかないのではないだろうか?
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「バカの壁」を読める人間と読めない人間との間にあるバカの壁は超えられない

こんばんわ……いや,おはようございます.yulico です.

まぁ,タイトルで結論は出ているんですが,簡単な話の経緯を書き記します.

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(こんなことを思うに至った背景)
何故かうちの研究室に紛れ込んでいる,当研究室とは全く無関係(とも言い切れないけど,無関係と思いたい)の某大学の外研の学生(僕がこの25 年の生涯で出会った,これを超える人は多分居ないであろうと思う究極のバカの一人.バカのホロタイプ.驚くべきことに年上)に僕と後輩のN くんが忙しい最中と言うのに捕まってしまう.そこで,よせばいいのに何故か話の方向が(宗教的なというか自己開発セミナー的な意味で)キナ臭くなってしまうのであった…….

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細かい話の内容はあまりにも下らなすぎて覚えている価値もなかったので,今となっては(といっても一時間も経ってないけどw)これっぽっちも覚えていないのですが,どう言うわけか,僕と後輩のN くんのいう非常に簡単な話が,その学生さんに全くと言っていいほど通じないのです.まぁ,人によって理解の齟齬や,理解に対する壁,能力不足などと言うことがあることは,以前もこんなことを書いた通り,自分自身,よく認識していたことなんですが,こういう観点とは全然違う意味で話が通用しないんです.

で,何が根本的に違うのかをよく考えてみて,このお馬鹿さんの言うことには「社会」が欠落しているのではないか,と言うことに気付きました.まぁ,「自分だけの自分に都合のいい世界しか見えない」と言い換えてもいいです.自己中ってことね.もう,びっくりするくらい.

この人物の発狂具合を文章で,気持ちよく皆様にお伝えすることが出来ないのが歯がゆくて仕方がないんですが,とにかく,有り得ないくらい何事も自分に都合良く解釈するわけです.それはもう「狂信的な宗教に入信しているのではないか?」というくらい(この例えでもかなりあまく言ってますよ,実際).

そんなわけで,こっちの意味でも話は通用しないし,彼の理屈に副わないことは彼の世界では起こらない,よって理解もされない……の無限ループに陥るわけです.

こういう世界に居る人は,当然,同じ物事(文章,物理現象……etc)を見ても決して,(いわゆる一般的な)僕らとは,感覚を共有することはありません(厳密な意味ではなく大雑把な意味で).よって,(いわゆる一般的な)僕らが,誰にとっても平等に理解されると思い込んでいる「物理現象」ですら同一の理解を得られないし,(より文系的にいうなら)common sense というルール作りすら一緒に行うことが出来ないわけです.

こうなると,いわゆる「理解」の上での障害として設定される「バカの壁(多分,養老氏の著書ではこっちの意味のはず)」以前のレベルで巨大な壁が出来てしまうわけです.だって,理解をしようとすることすら出来ない,または「理解」の意味が(いわゆる一般的な)僕らとは異なるので,根本的に交わることが出来ないのですから.

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多分,養老氏の「バカの壁」という著書は試金石として凄く重要だと思うのです.

(いわゆる一般的な)僕らは,この本を読んでも「そうですね.で?」程度のことを思うだけで,何の感動もないと思います.むしろ,ある程度頭の回る人間であれば「バカじゃね?」くらい思うでしょうし,そもそも読まないでしょう.

養老氏の言う「バカの壁」の向こう側に居る人は,本の真意も理解せずに手放しで喜ぶか,無意味に批判するでしょう.もしかしたら,ある程度頭が回れば,己の過去を振り返ってある程度マトモになることもあるかも知れないです.

それ以前の人(つまり,今回の俎上に登っているお馬鹿さん)は,どうなるのか,僕の想像を遥かに超えているので,正直,分かりません.ただ,一つ言えるのは,その人と話をしても,到底「同じ本」について話し合っているとは思えないような内容になるであろうことです.

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ここでの問題は,「バカの壁」の向こうの人でも「バカの壁」を読む(これは一般的な僕らと同じ意味の「読む」)ことは出来るが,それ以前の人は「読む」こと(視覚的に記号を脳に取り込むこと)は出来ても,本を読むことが出来ない,読めない,と言うことです.そうなると,僕らはその人たちと永久に交われることがない,と言うことになります.で,多分,この垣根を越えることは無理なんだと思います.

そう考えると,「バカの壁」の向こうの人に少し優しくなれるような気がします.おなじ人間なんだ,と…….

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(追記)更に,こういう人たちの凄いところは,自分が何事かを信じれば,それに都合良く世界が変わるって思っている点です.これについては「もう,どーにでもな〜れ♪」というほかないじゃないですか.

posted by yulico at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月24日

サイエンスコミュニケーション

昨日のエントリや,同僚の最近の意見に関連して.

以下は別にサイエンティスト目線からの傲慢でもなんでもなく,コミュニケーションに関する一般的な認識だと思うんだ.僕自身,このblog で特に「環境問題(笑)」のシリーズでサイエンスコミュニケーションの真似事をやっていたりするので,ひとつは,以下の原則以上に傲慢になっていないか,という自省の念も込めて…….

・無知であることとバカであることは根本的に違う.同じ無知でも学習意欲の有無で月とスッポンの差がある.サイエンスコミュニケーションで科学が相手に想定しているのは学習意欲のある無知な人だけである.

・サイエンスコミュニケーションは,科学に対して興味はあるけど無知な人に科学を理解して頂くためにサイエンティストが努力するものであるけれども,サイエンティストがバカのために粉骨砕身するものではない.ましてや,学習意欲がない人間を相手にする場ではない.サイエンスコミュニケーションの場は義務教育機関ではない.

・ある程度以上の共通理解を得られないバカとはそもそもコミュニケーションが成り立たない.ディスカッションもできない.

・ゆえに,相手とコミュニケーションを取るときに,無尽蔵なバカを想定する必要はない.仮に相手が雑多な背景をもつ人間の集団であった場合,コミュニティーの中の一番下にレベルを合わせる必要はない.

・サイエンスコミュニケーションは学校教育と一緒.落ちこぼれを作ることも,バカにものごとを理解させることが出来ないことも,学習意欲がない人間を切り捨てることも,責められる必要はない.

・そもそも,こういう指導・啓蒙のプログラムは,上記のような人をどうにかするようにできていない.特殊なおバカさんたちを除く,できるだけ多くの人間が一定水準の理解を得られることを目的としている.

・普通の高等教育機関は「入学試験」で「学習希望者」を選別している.当然,(通常,高等教育に準ずる知識の伝搬を目的とする)サイエンスコミュニケーションの場でも,どうしようもないおバカさんを相手から除外する権利はある.

・しかし,実際には選別不能であるので,やってくる一定数のおバカさんたちはなんとかしてスルーするしかない.

・サイエンスコミュニケーションの場において,物事を理解できないのは,解説者の能力不足ではなく,自分の脳みそが一般の平均からみて劣っていることを指していると認識すべき.現実に,貴方の周りの人間の大多数はその解説者の話を理解できているはず.

・結局,日本語話者としか日本語では会話できない.……つまりは,そういうこと.

……これを僕のかわりに某古生物掲示板に貼ってくれる方がいらっしゃいましたらyulico までご連絡下さい.それによって,いかなる損害が生じてもyulico は責任を負いかねますが,一食くらい奢ります.
posted by yulico at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月13日

思索と人生の時間

おはようございます.yulico です.
今日の同僚との「思索と人生」ゼミ(深夜二時以降に不定期開講)で得られたコンセンサスの備忘(一部).

・下ネタはファンタジーである.
・(ゆえに)バカの下ネタはつまらない.

文章に起こすのがめんどくさいので解釈はご自由にどうぞ…….

(関連)
http://yulico-dot-com.seesaa.net/article/37250427.html
http://yulico-dot-com.seesaa.net/article/66799644.html
http://yulico-dot-com.seesaa.net/article/84244077.html
http://yulico-dot-com.seesaa.net/article/90862948.html
posted by yulico at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月19日

お人形のお話

 おはようございます.yulico です.

 可淡のお人形のお話をしていたら,お人形が欲しくなりました.とはいえ,本当のお人形を購入するには資産が足りないので(管理費を含め),とりあえず復刊する「KATAN DOLL」のシリーズを買おうと思います.

 以前,お人形については書いたことがあると思うんですが,お人形とは,玩具であり,作家の慰み者であることにこそ価値があるモノだと私は信じているので,こういう写真集を買うのには若干抵抗があったりします.せっかくの球体関節人形に特定のポーズをとらせ,一枚絵のような写真におさめてしまうのは,人形の持つ無限のエロティシズムを失わせてしまうだけではないか,と.

 ただ,球体関節人形の一番の魅力って言うのは,「動くこと」自体の持つエロティシズムではなく(つまり,人形と性交が可能であること=そういう事実),「可動性」に秘められたエロスへの妄念そのものにあるので(つまり,人形と性交することが理論的には可能であると言う想像が出来ること),写真と言う形に固定されていても魅力が失われていることにはならないのではないか,と,自分を納得させています.しかし,そうはいっても,芸術として絵のように扱われる「写真」の中の人形に人形愛を感じることが出来るのか,と言われてしまうと困うわけです.

 私にとって人形は,人形である以上,「おもちゃ」であって,芸術であってはいけないのです.この辺,私がハンス・ベルメール(の「The doll」等の一連の写真作品)をあまり好まない理由だったりするんですが…….「人形があって,それを弄んでいる光景を写真に収めるのか,写真を撮るために人形を配置するのか?」というのが私にとっては大きな問題なわけです(当然,前者が正しい姿だと言いたい).

 私の好きな人形に,四谷シモンの「機械仕掛けの少女」と「木枠で出来た少女」と言うものがあるのですが,これらのもつ狂おしいほどの「エロス」と,特定の名前は出しませんが最近の人形作家でやたら芸術性を求める人たちの目指す「美」は根本的に違うんじゃないかな,とか思います.
 でも,吉田良とかは,もろにベルメールの影響を受けているけれどもちっとも芸術臭さがなくてそそらされる人形を作りますから,多分,ベルメールの一連の「芸術」自体は,これらの傾向とは無関係なんだろうな,とは思いますが(可淡もベルメールの影響は確実にあるし,もっと言えば,四谷シモンだってベルメールがいなければ今のような人形は作っていないだろうと思う).

 結局のところ,人形は,所詮,おもちゃの人形でしかなくて,それらを「芸術的に」見せようとするところに何かしらの齟齬を生じている,ということが言いたいわけで,その辺りが,「KATAN DOLL」を買うのを私に躊躇わせているのです.

 とか言って,結局,買うんですけどね…….
posted by yulico at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月05日

誰にも見えない美しき世界

 こんにちわ。むかわ町穂別富内が雨のため、本日は自宅待機のyulico です。同じ学科のお姉さんはGW 前に「GW 中に日高(フィールド)に行く♪」とか行っておりましたが、ばk……大変そうだなぁ、とか思ったり思わなかったり……。

 しかし、天気さえ良ければフィールドには出たいのが本音。たとえ熊がいてもフィールドワークは楽しいものです……仕事じゃなければね。実際にフィールドに出ると、あれもしなきゃこれもしなきゃ、と義務感に追われて結構大変。

 閑話休題。

 というわけで、今回は、似非哲学者兼似非サイエンティストyulico の「哲学万歳」のコーナーです。といっても、今回扱おうと思っているネタは、どっちかって言うと哲学というよりは「美学」。それも、サブカルの要素が強く出てくるようなものですが……。その辺は、日本の哲学者で一番好きなのは東浩紀とか言っている人間ですのでご勘弁を(といっても、当代一流のデリダ研究者として尊敬しているのであって「萌え」を哲学してる東はあまり好きじゃないんですが。なお、蛇足ですが、デリダは難しい、とか、意味分からない、とか、敬遠している方がいらしたら東の著作は絶対お勧めです。彼の解釈がいかにしろ、少なくともデリダの原典よりは遥かに頭に馴染みます。……って、それじゃ本末転倒ですが)。



というわけで、哲学する?
posted by yulico at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

なんとなく、なんとなく

 こんばんわ。yulico です。新しいカテゴリを作ってみたり、作ったそばから失敗感がぷんぷん漂ってきたりと、忙しい心理変化に右往左往しております。

 「もの書き」

 この職業に憧れ始めたのがいつの頃だったのか、僕は、もう覚えておりません。それはもう、小学校の頃にちょぼちょぼと書き始めた「童話集」だったり、中学校のころに「もの思う葦」(太宰治)に憧れて書き溜めていた「思索集(その名も『20 世紀のパンセ』w)」だったり、高校時代に書き散らしたSF だったり……。もしかしたら、具体的にサイエンティストと言うのがどういうものか、を知ってからそれに憧れたよりも以前の段階から盲目的に「もの書き」というやくざな職業の持つ香りに惹かれていたのではないか、と言う気がします。

 しかし、こんな憧れも、一昔前に青春時代を通り過ぎていたら、大学を卒業するような年齢になってまで心の奥底にくすぶるなんていうことはなかったのでしょう。つまりは、所詮、自己満足で文章を書き上げたとしても、インターネットという虚構空間が存在していなかったとしたら、そんなところに恥を晒そうなんていう考えも浮かんでこなかったのではないだろうか、と思うわけです。

 しかし、現実には「インターネット」の存在する時代、それを扱うのに特殊な技術のいらなくなる時代に、青春をささげてしまった僕は、その虚構に身を沈めなければならない義務を自らに負ってしまったわけです。簡単なる発表の場と、簡易なるコミュニケーションツールの前に、己の恥を省みる余裕はいかほどもなかったこと、それはきっと、多くの「もの書き」志望の若者に理解していただけることでしょう。

 そんなわけで、僕は、やってしまったわけです。初めて持ったウェブサイトに、稚拙な小説をアップロードしたり、詩を書いてみたり、しまいには、自分で勝手にエッセイを書いてみたり……。

 やってみると、意外にも面白いものでした。
 自分の隠し持っていた究極に自己の快楽に忠実な感覚が、人目に触れ、簡単にアクセスされうるという、被虐的快感。こう書くと卑猥だけど、「もの書き」という職業そのものが内包する「他人に見られる」という快感が、いとも簡単に手に入ってしまうという気楽さは、仮に、その相手が仮想的な「読者」に対してであっても、少なくとも僕にとっては気持ちのいいことでした。

 なーんて、書いていると「ただの自己満足」と捉えられるわけだけれど、それは、そのとおりなので、僕は何もいえない。アダルトビデオという仮想の対象の前で、僕は、公然とオナニーをして気持ちがいいと言っている……、例えるならそういうことです。しかし、そうであることを自覚していてもオナニーが気持ちいい限り、そんな皮肉を気にしないくらい、僕はタフになってしまっているのです。その辺も、アダルトビデオ&オナニーに似ているな……。

 閑話休題。

 そんなわけで、僕は、また、このblog という文明の利器を用いて、恥ずかしい「公開オナニーショウ」を始めようと思い立ったわけです。

 「いんまいふぃろそふぃい」

 「僕の哲学では……」

 実を言うと、Ben Folds Five の曲名からのパクりで付けたカテゴリーのタイトルなのですが、あの曲で言うような、いわゆる「僕の哲学」ではなく、個人的な近代〜現代哲学雑感、というか、批評文学的なアプローチというか、そういうものです。まぁ、そこまでかっちりした批評なんて書けないので、一学生の哲学妄言集みたいな色合いになるかなぁ、と思っています。まぁ、少なくとも某友人のいう「哲学」のようなものを書くつもりではない、と言うことだけは、はっきりさせて頂きたい。けど、文系人間じゃないのでタームの誤用とか、知識不足&突っ込み不足は笑って許してくださいな、という感じで……。哲学風エッセイってところかな……。


哲学する?
posted by yulico at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | いんまいふぃろそふぃい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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